どこもかしこもひかりごはん

どこもかしこもひかりごはん

7/2

 

気に入ってた雑貨屋のインスタの写真が雑になってきていて、世代交代でもしたんかな。とかしょーもないこと考えていた休日です。

最近コーヒー淹れてないなあと思いながら、無意識のうちにインスタコーヒーをお湯で溶かして氷を入れて、牛乳を注いで、また今日もこれが完成していた。はあ、ルーティンって憎い。

電車に乗ってる制服を着た小学生(おそらく高学年)が、携帯ゲームに夢中になって友達ともたいして目も合わせない。かと思いきや、目の前に現れた親子(4歳児くらいの子連れ)に「どうぞっ!」とサッと席を譲って、有無も聞かぬままさーーーーっとちょっと離れたところへ行って立ってまたゲームを再開していた。拍手が起こりそうな展開である。親子はあっと驚きながらも、ちょこんと座って「お兄ちゃん、やさしかったね」と話し合っていた。

誰かのことを表面だけで「ウギギッ」という印象を持つのは良くないね。現代の子どもにとっては、携帯ゲームは本のような文化的なツールなのかもしれない。これも良くないけど。

 

携帯といえば、この前すごい研究結果みたいなことに出会った。

よく関わる親子、お母さんは静かな感じだけど、子どもは本当によくおしゃべりをする。子どもの話やペースによーく寄り添っていて、淡々とした賑やかさ(?)を感じる。一緒にいてとても心地良い。子どもは大人の話にもよく耳を傾けて、ちゃんと聞いて、ちゃんと答えようとする。言葉ははっきりと通じぬがレスポンスがしっかりと取れる。

ある時、子どもが他のお母さんが携帯を見ているのを発見して、じーっと見つめて、しかし他の子のように手は伸ばさずそこでおしまい。「おおー」と感嘆を漏らしかけた時、その子の親は「遊びにくる時には携帯は触らないようにしてるんです。一回みると気になるだろうから、せめて外では触れないものにしています。家でもなるべくささっと、、、」と言っていた。

携帯は大人の手にとっては小さなものでも、子どもにとっては宇宙空間に触れるようなとても大きくて深い存在だ。この時間をどう使うかは自由だけど、たのしみは大きくなってからに取っておくと、今をもっとたのしみ、そしてある種の“楽”に繋がる。この文章を携帯を握りしめながら打ち込んでいながら、そんなことを思う大人でございます。

「そっちにいっちゃダメ!」って感じで進もうと思ったところで行き止まりに差し掛かる。戻るのには時間がかかるよ。ああ、ここに来るまでのいろんなことを思い返しながら、原点に戻らなきゃいけないのかな、とか。希望を感じたあの瞬間たちを置いては行けぬよ、、。

だけど、これがその人のしあわせならば、まあいいよ。それでわたしに対して刃が向かなくなるのなら、どんどん世界を離していけばいい。わたしは行きたいところにスルスルと行けなくなったけど、こうなるべくしてなったんだなと思う他ない。善人のような発言に聞こえるけど、こういう小さなことはちゃんと書き留めています。でも、まだドキリとするんだから、まだ出会いの途中だったのかもしれない。

わたしはね、それでもわたしなんですよ。わたしで居るか、死ぬかの2択です。

久しぶりに寿司屋に行ったら、一皿125円になってて目玉飛び出た。いつかまた100円に戻るのかなあ。もう回転寿司なんか行かなくなっちゃうのかなあ。

お母さんやお父さんが「30年前はこうだったのにね、、、」とか話す時間軸の感覚が少しわかってきたように感じる。

大きな出来事の全ては忘れても、取り止めもないことをじわじわ思い出したりするんだろうな。

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